牛タンの歴史やなぜ仙台は牛タンが有名なのかをご存知ですか?
実は牛タンは原始時代から食べられていたと言われているほど長い歴史があります。
この記事では、そんな仙台牛タンの深い歴史と仙台で有名になった経緯を紐解いていきます。
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人類と牛の祖先、そして牛タンの歴史
そもそも、タンというのは今は日本語としてそのまま通用する言葉ですが、もともと英語で「舌」を意味する「Tongue」に由来します。
ですから豚の舌も豚タンですし、人間の舌だってタンなのですが、日本語でただタンと言った場合には牛の舌、牛タンのことを指す場合が多いと言えます。
日本語でそのようになったのにはちゃんと理由があるのですが、まずはそれについて解説する前に、人類と牛、その祖先同士の関わりから辿ってみるとしましょう。
原始の時代の人と牛
ウシは人類によって家畜化されて出現した動物であり、その祖先はオーロックスという野生動物でした。ウシよりも遥かに獰猛で、一回りも大きかったのですが、太古の昔から人類は果敢にかれらを狩り、食べていました。有名なラスコーの壁画にも、オーロックスの姿が描かれています。
多くの考古学的・人類学的証拠から明らかになっているのですが、原始時代の我々の祖先は野獣の肉を食べるに際しては脂肪の多い部位を好んでいたため、牛タンは人類の歴史というものが始まる以前から御馳走でした。
ちなみに牛タンに含まれるカロリーのうちの約75%が脂肪分に由来します。オーロックス版の牛タンにしても似たようなものではあったでしょう。
牛タンの文化と歴史、その広がり
さて、人類が家畜というものを飼い始めたのは歴史上の通説では一万二千年前頃、ウシの家畜化はだいぶ下って八千年前くらいであるとされています。
対抗馬として豚や鶏の存在があるとはいうものの、その間ずっと、人類の歴史の中で牛タンを含むウシ由来の生産物は重要な意味を持ち続けています。
こんにち、牛タンを好んで食用にする文化圏はベルギー、ドイツ、ポルトガル、それにメキシコなどが代表的です。アメリカでは19世紀頃には牛タンの利用がポピュラーだったのですが、その後の歴史がどう転んだものか、今はそれほどでもないそうです。
牛タンは「シタ」だった?日本の歴史における牛
次に日本における牛、そして牛タンの利用の歴史の始まりについて見てみるとしましょう。
古代日本の歴史における牛の利用
まず大前提として、縄文時代の日本列島にはウシはいませんでした。従って牛タンもありませんので、そのあたりの歴史は飛ばします。実は『魏志倭人伝』という有名な歴史書に「邪馬台国には牛や馬はいない」という記述があるのですが、その後の歴史的研究によれば、実際には弥生時代に、朝鮮半島から既に家畜化されていた牛が導入されたと考えられています。
そこから時代が下りまして、重要な歴史的記録があるのが天武四年(西暦675年)、このとき五種類の獣の肉を食べることを禁じる触れが出されました。その五種類というのは牛、馬、犬、猿、鶏です。
最初から誰も食べないものをわざわざ食べるなと禁じる権力者はあまりいませんから、逆にこのことからこの頃の日本人は牛肉を食べる文化を持っていたと考えられます。牛を食べる風習があるのに牛タンだけは食べなかったとも考えにくいので、やはり食べられていたものと推測できます。
日陰にあった日本の肉食文化
さて、歴史年代はその後奈良平安鎌倉室町江戸と下っていくわけですが、この間、何度も何度も日本の権力者たち(天皇にせよ武家政権にせよ)は肉食の禁止令を出しています。このあたり、色々と研究の難しい部分があり、前近代の食文化の歴史を見た際に日本の獣肉食の実態がどうであったか明確ではない部分もあるのですが、考古学的証拠が明かしている概略をざっくりと述べましょう。
骨などの発掘史料から分かるのですが、日本人は割と獣肉を食べていました。ただし、表向きは仏教の教えの問題などがあって、食べるべきではないという建前があったのですが、実際には割と大勢食べる人がいた、そういうことであるようです。
ただ、やっぱり肉食は後ろ暗いという建前は確かに厳然とあったのも事実で、さらには牛タンなどというものは「シタ」であるとされていました。このシタは舌のことではありません。上下の下、つまり「下等なもの」という意味です。牛タンだけを指してシタというわけではなく、牛タン以外に他の内臓肉などもシタでした。
誰かしらは食べていたのですが、少なくとも江戸の大路の真ん中で公然と肉屋や肉料理屋が看板を掲げて営業していたわけではない、という歴史事実があります。江戸時代には獣肉を商う店(飲食店も兼ねます)をももんじ屋と言いましたが、世間体の悪い存在なので、ももんじ屋がここにある、という看板などは出せず、ひっそりと営業していたと言います。
明治維新で全てが変わった
それが変わったのはいつであるか、というと幕末と明治維新の頃です。文明開化によって欧米の文化がどっと日本に流れ込み、日本人も公然と牛肉を食べ、また乳製品を口にするようになったのです。ただ、それによって牛タンも盛んに食べられるようになったか、というとそういうものでもなかったようです。
この頃の日本の食文化の歴史に燦然と輝く牛肉の料理は牛鍋でした。現代ではすき焼きと呼ばれるものと同じ流れを汲むものですが、明治に牛肉を食べるようになってすぐに、少なくとも今のように牛タンが日本の食文化に大々的に躍り出てきたわけではない、ということは一つの歴史として踏まえてください。
仙台牛タンはなぜ有名なの?仙台の歴史
- 牛タンの発案者は、仙台市で焼き料理店を営んでいた佐野啓四郎さん
- 試行錯誤の上、「一汁三菜」のスタイルの焼き牛タンを作った
- 仙台牛タン発祥の店は「味太助(あじたすけ)」
- 現代でも佐野さんが発案した牛タンメニュー、秘伝の味は受け継がれている
仙台の歴史
今でこそ、仙台牛タンは全国クラスで有名ですが、そもそもなぜ有名になったのか、仙台の歴史を見ると理解することができます。実は、仙台の地元民は普段からいつも牛タンをよく食べているわけではありません。仙台市民にある調査をしたところ、約70%の人は「牛タンをあまり食べない」と回答しています。
ではなぜ仙台名物になったのかというと、話は戦後に遡ります。戦後1950年代、アメリカ駐在軍が多く点在していた仙台には大量の牛肉が流通しており、入手しやすい環境にありました。
当時、第二次世界大戦で大空襲の被害に遭った仙台市は復興するまでに長い時間がかかりました。食糧難が深刻化して、多くの住民が苦しんでいたそうです。
その問題を解決するために、仙台で和食屋を営んでいた佐野啓四郎さんが牛肉の余った部分のタンとテールを使い、美味しい「牛タン」が生み出したというわけです。
牛タンは昔から仙台で食べられていたイメージがありますが、実際に現在のような牛タン料理が調理されたのは戦後からとなるので、約70年の歴史があるといえます。
仙台牛タンの生みの親!佐野啓四郎さんの功績
仙台で和食店を経営していた佐野啓四郎さんは、当時、焼き鳥をはじめとする焼き物料理を提供していました。
焼き鳥は焼いてすぐお客様に出せため、比較的簡単に作れるのがウケて、戦後の不景気な時代でも焼き鳥店を開業する人が多かったようです。
しかし、佐野啓四郎さんには大きな悩みがありました。それは新メニューを作ってもすぐ他店に真似されてしまい、差別化ができなかったことです。
「なんとかして自分だけのオリジナル料理ができないものか…」と試行錯誤した結果、牛肉を加工したときに余る牛タンやテールといった部分を活用することを思いつきました。
上質な肉は当然ながら、アメリカ軍や富裕層の上流階級しか口にできないものでしたが、牛タンやテールは余り部位なので廃棄される、もしくは闇市へ流通されていたのです。
当時、牛タンという料理自体はすでに存在していましたが、珍味で入手しにくいので、佐野啓四郎さんは東北地方を駆け巡って、レシピや情報を入手し始めました。
実際に牛タンを食べてみると、すっかりその美味しさにハマってしまい、「自分が究極の牛タンを作ってやるぞ!」と意気込んだそうです。
親友からのアドバイスで牛タンを寝かせてから焼く方法を発案
佐野啓四郎さんには洋食店を運営している小野さんという親友がいました。その洋食店で牛タンシチューを勧められて食べてみたところ、その美味しさに感動したそうです。
タンシチューは数日間かけて煮込む手間がかかりますが、焼き料理店ではどうやって素早く美味しい「牛たん焼き」を提供できるか、それが課題でした。
こうしてオリジナルの味を追求して、試行錯誤した結果、牛タンはまず切り身にしてから塩振りしてしばらく寝かせて丁寧に焼くというオリジナル手法を発案したのです。
さらに、日本人の口に合った味付け、調理法、カットのスタイルを確立して、現代にも伝わる「仙台牛タン焼き」が登場しました。
仙台牛タン発祥の店「味太助(あじたすけ)」は昭和23年にオープン
昭和23年、佐野啓四郎さんは牛タン専門店「味太助」をオープンしました。
仙台の牛タン専門店では、「牛タン定食」を注文すると、厚切り牛タンに麦飯と浅漬け(青菜漬け)、みそ南蛮(青唐辛子)、オックステールスープがセットになった「一汁三菜」のスタイルが定番です。
これも牛タンの名店「味太助」の初代である佐野啓四郎社長が発案したものが受け継がれています。
戦後間もない頃は白米は高級食材だったため、庶民でも手を出しやすいように麦飯を代用して提供していました。現代はよりヘルシーという理由で健康志向の方々にも人気です。
佐野啓四郎さんは山形県出身なので、発酵食品で日持ちがするみそ南蛮(青唐辛子)をセットメニューに取り入れたと伝えられています。
牛タン専門店「味太助」はいま、3代目の店主が伝統のスタイルを守り、大切にその味を受け継いでいます。
- 営業時間:11:30~22:30
- 電話番号:022-225-4641
- 定休日:火曜日
- 公式ホームページ:https://www.aji-tasuke.co.jp/
高度経済成長期に仙台牛タンが全国区で有名になった
仙台牛タンは地元仙台には浸透し始めましたが、全国ではまだその存在はよく知られていませんでした。
それから30年後、高度経済成長に入り、東京の多くのビジネスマンが仙台へ出張に出かけた際に「仙台は牛タンが旨かった!」と口コミで話題になったのです。
単身赴任で仙台に住むビジネスマンも増えて、「仙台牛タン」の存在と美味しさは全国に知られるようになり、テレビや雑誌など多くのメディアでも紹介されました。
仙台牛タンのお店は多くありますが、どのお店もお肉の質や切り方、焼き加減など、職人さんがこだわり抜いて、丁寧に調理しているのが特徴です。
最近は、通販で仙台牛タンとして販売されている商品はアメリカ産やオーストラリア産が多いですが、柔らかい肉質なので、厚切りでも食べやすく、風味が豊かで人気があります。
ちなみに「仙台牛タンはアメリカの残り物から生まれたという説がネット上でもいくつか見られますが、牛肉から余って切り落とされた部位を活用したという説が有力となっています。
日本焼肉の歴史における牛タン
ではもう一つの牛タンの歴史、つまり焼肉の種類としての牛タン、なかんずくタン塩の歴史について述べていきましょう。
焼肉の歴史は仙台牛タンとは別の流れ
日本で焼肉が生まれたのはいつで、そして前史としてどのような歴史があるのか、という問題も掘り下げるには難しところがあるのですが、一つ明らかなことには牛タンが焼肉屋のメニューで目立つようになったのは仙台牛タンの登場よりもだいぶ後、昭和も後半に入ってからです。
牛タンというメニューは焼肉屋においていくつかの特徴を持っていますが、まず、「レモン汁に浸して食べる」というのがあります。これがいつ誰によって始められたか、ということなのですが、説が二つあります。まず一つ目は、今も高級焼肉チェーンとして名高い叙々苑で誕生した、というもの。もう一つは、銀座にあった清香園という焼肉の名店の店主が考案した、というものです。
清香園説
まず清香園説について見ていきましょう。この店主は女性だったのですが、彼女はあるときスウェーデンに訪れ、空港で牛タンの燻製を試食し、感銘を受けました。しかしそのままでは食べにくかったので、冷凍して皮を剥き、塩とレモンでさっぱり食べるスタイルを考案しました。
そうして「牛タンにレモン」というスタイルが誕生し、日本で歴史的なヒットとなって、全国に広まった、というのが清香園説です。
叙々苑説
もう一つについてはまず叙々苑の創業の歴史から話を起こしましょう。叙々苑は1976年に創業したのですが、その頃、日本の焼肉屋では、牛タンというものはミックスホルモンに雑にまぜられる程度で、味付けもみそだれを利用した甘口が一般的だったそうです。タン、という言葉すら、仙台の外ではあまり普及していませんでした。
さて、叙々苑の創業者がその創業にあたって目玉となるメニューを考えて悩んでいたところ、知り合いの内臓肉を扱う卸商からこう教えられました。賄いで牛タンを塩焼きにして食べるのだが、これが酒に合うのだ、と。
彼が本気でそう思っていたのか、それとも当時は人気のなかった牛タンを売り込むための方便としてそう言っただけなのかは分かりませんが、それを受けて叙々苑は牛タンを大量に仕入れ、「タン塩」と称して品書きに加えました。
牛タンとレモンの相性はひとりの女性が見つけ出した?
さて、ここからが牛タンとレモンの関係の叙々苑説になるのですが、当時の叙々苑の常連客のひとりに、六本木でクラブのホステスをやっている女性がいました。当時、タン塩は塩だけで食べるメニューとして供されていたのですが、彼女はそれが不服でした。「このまま食べたらやけどしそうだから、レモン持ってきて」と彼女は言いました。何の運命の計らいか、レモンはその場に用意され、ホステス女史は満足し、店主にも試食を勧めました。
そして、店主がそれを試したところ大変に美味であったので、「タン塩にはレモン」という文化が生まれたというのが叙々苑説の歴史的概要です。余談を一つ述べると、牛タンにネギを載せ、包んで焼くというスタイルも同じ叙々苑創業者新井泰道氏の考案なのだそうです。
これら二つの話のどちらかが都市伝説であるのか、あるいはどちらも都市伝説であるかはたまた両方とも実話であるのか、そのあたりのことは歴史の闇の彼方の事で分かりません。ただ一つ確かなこととしては、この時期、つまり歴史上「日本の外食元年」とも言われる1970年前後を境に、牛タンの利用は日本中の焼肉店に、そして一般家庭にも爆発的に広まりました。
牛タンの現状、その歴史的展望
それでどうなったかというと、牛タンというものの利用価値や価格そのものが跳ね上がりました。
創業当初の叙々苑は国産の牛タンだけを使っていましたが、それだけでは追いつかなくなり、日本は大量の牛タンをアメリカやオーストラリアから輸入するようになりました。それだけ日本人が牛タンを好むようになった、ということです。
タンの原価、仕入価格が上がってしまったおかげで、「焼肉屋で最初の一皿」の定番となった牛タンも往時ほど焼肉屋に利益をもたらしはしないそうですが、いずれにせよかつて我々の祖先がオーロックスの舌に舌鼓を打っていた時代から数千数万年を経て、現代の日本人もまた、牛タンを大いに珍重するようになった、というわけなのでした。
牛タンの歴史まとめ
仙台牛タンの発祥については明確な一つの歴史的通説があります。仙台牛タンは昭和二十三年(1948年)、つまり今から八十年ほど前に生まれた歴史の浅い(八十年の歴史を浅いとは言わないという考え方もあるかとは思いますが)文化である、というものです。
一般に語られている説によると、戦後まもなくのことで、アメリカから多くの牛肉が仙台にも持ち込まれており、当然その中には牛タンもありました。ただ、当時の日本人は、仙台の人々も含めて特に牛タンを好みませんでした。そこで、牛タンを商っていた商人が困り、味太助という店を経営している知り合いの飲食店主に相談しました。その店主の名を、佐野啓四郎と言いました。
啓四郎は牛タンを試食してみて、美味しいと思ったので、これを提供するスタイルを考え出しました。すなわち、牛タンは厚切りで焼いて、麦飯に添え、またテールスープ(テールも余っていました)、漬物、そして青唐辛子のみそ南蛮をともに供する、というものです(ちなみに仙台牛タンにはレモンは用いません)。
今も仙台の伝統的な牛タンの店では、啓四郎が考えたこの定食スタイルを堅く守り、歴史ある食文化として維持しています。ちなみに味太助の名前をそのまま受け継ぐ店も存在しています。
まだ戦後間もない頃に、仙台は食糧不足と貧困が深刻化していました。そんな中で日本人の口に合う美味しい料理を作るために努力した佐野啓四郎さんの功績は偉大です。
仙台名物として始まった牛タンもその後、全国区で有名になり、現代は老若男女の幅広くファンがいる人気料理となりました。
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